長谷寺新到研修~参加者感想文~ 28年8月28,29日

長谷寺新到研修~参加者感想文~ 28年8月28,29日

平成28年8月28,29日と毎年恒例の本山一泊新到研修に行って参りました。新到和尚16名、特殊安居者2名、参禅者2名を勝田悦事、小坂真事が引率し、初めに長野の善光寺をお参りし、本山で一泊参禅、そして、翌日は彦根城、湖東三山を参拝しました。※以下は研修参加者の感想文

池田光英
新到研修でご本山永平寺へ拝登して特に印象に残っているのが、諸堂拝観で回った法堂と仏殿の柱に掲げられた「誦経宜中㝡禁高聲勵聲」の聯です。「誦経は宜しく中音なるべし、最も高声励声を禁ず」と読み、「お経を読む時は中音で読み、高い声や、大きな声で読むのは最もいけない」と読経時の注意が示されています。
私は上山したての頃、役寮さんや、古参和尚さんから、読経の際の声の大きさや高さについて度々注意を頂きました。当時の私は、単純に声の大きさのみを考えていて、周りの声を聞いて皆と合わせることなど全く考えていなかったのです。
永平寺の朝課では二百名近い僧侶が一同にお経を読んでいるにも関わらず、その読経が「一つ」になっていました。誰か一人が目立つこともなく、一人ひとりが周りの声をよく聞いて皆に合わせているのでしょう。
本山の大衆の読経を聞き、改めて自分のお経の読み方を見直さなければと思いました。聯にあったお示し、「誦経宜中㝡禁高聲勵聲」を忘れることなく、大衆一如、乳水の如くに和合して、今後の修行に励みたいと思います。

森脇浩学
私が大本山永平寺を訪れるのは、今年四月下旬に行われた授戒会に参加して以来、二回目のことです。授戒会での一週間は、色々なことを学び、体験したわけですが、最も印象深かったのは、前面で諷誦しておられた僧侶や修行僧の凛とした姿や清楚な威儀、礼儀正しい姿であり、憧憬の念を抱かざるを得ませんでした。
この度の研修は、私の立場が違って、出家の僧となって訪れたことから、授戒会とは異なる意義深いものでした。特に僧堂での坐禅や応量器展鉢(食事)は、緊張もしましたが、それ以上に大本山永平寺ということで大変嬉しく、高揚しました。
また、引率役寮さんの案内と説明で七堂伽藍を回り、僧堂だけではなく便所や浴室が何故修行道場と位置付けられているのかを知ることが出来、修行僧としての自覚のようなものが芽生えた気がします。
今回の研修では、本山の修行僧のきびきびとした礼儀正しい振舞い、自信を持った動きなど、その琴線に少しでも触れることが出来、今後の私の修行の糧となりました。
私は高齢ではありますが、永平寺の若い修行僧には負けない意気込みを持って、この大本山永平寺別院長谷寺において、日々の修行に打ち込み、高祖道元禅師様のお示しの如く、「ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ佛となる」よう精進して行きたいと思います。

若月天海(裕己)
この度、念願かなって初めて永平寺を訪れることが出来ました。永平寺の七堂伽藍を悦事さんに案内して頂く中で、二つのことが印象深く残っています。
まず一つ目は、「浴室」あるいは「東司(便所)」についてです。どちらも使用するにあたっては他人への配慮を持つ必要があり、「沐浴する者千人なりとも、その湯浄きこと元の如し」であるような使い方をする、大事な修行の場であるのだと再確認させられました。浴室と東司は三黙道場に含まれ、ただ単に用を足すだけの場ではないと知り、いつの間にか作業と化してしまっていた自分のあり方を反省しました。
二つ目は、仏様を祀り祈祷する仏殿の説明の中で出て来た、「第二の矢を受けない」という仏教の核心を衝く言葉です。私はこれまで、世界の平和や安寧を祈る法要に意義を見いだせず、必ずしも思い通りにことが実現しない有りようを見て、「仏教は結局無力なのではないか」と感じることもありました。しかし、悦事さんの説明を受けて、確かに自然災害などの前では無力だが、そこで苦しみを受けた後、混迷に陥らないために仏教があるのだと知り、今までの疑念が晴れるような思いがしました。このことは、行きのバスで見た事前学習の映像の中で宮崎禅師が仰っていた、「自然をコントロールしようとするのは、人間のおごりである」という言葉にも通じていたように思います。
今回の研修では永平寺についてだけではなく、仏教に関しても理解を深めることが出来ました。今後、師寮寺に帰ってからもさらに研鑽を続けて行きたいと思います。

青蔭鴻慈
私は以前、永平寺の参禅研修に一般人として参加したことがありましたが、今回は一僧侶という立場にて研修に参加するという有難いご縁を頂きました。
役寮さんに永平寺を案内して頂く中で一番印象に残っているのは、仏殿の欄間にある「拈華微笑」の話です。これは、お釈迦様から摩訶迦葉尊者に法が伝わった時のエピソードで、「以心伝心」(心を以て心を伝える)という、禅宗で師匠と弟子の関係が重んじられる所以を知ることが出来ました。
研修では、以前の参禅研修の時とは違い、衣を着、袈裟を掛けての坐禅、朝課、行鉢への随喜は、すべてが新鮮で、文字通り喜びの心を持って参加することが出来ました。また、廻廊掃除への参加は、修行していることを実感できる良い機会でした。本山の修行僧のきびきびとした動きを見ていると、毎日の積み重ねが姿、形にあらわれていると感じました。私もそうなれるよう日々精進したいと思います。
今回、長谷寺に参禅という形でお邪魔させて頂いているにもかかわらず、新到研修にまで参加させて頂き感謝の気持ちで一杯です。この貴重な体験を、これから仏道を歩む上で生かして行きます。有難うございました。

阿部泰伸
開け放たれた障子の外から秋の虫の音が聞こえる。遠くでふくろうの鳴く声が聞こえる。微かにせせらぎの水音も聞こえる。
幽玄な深山で只一人で坐っている感覚に落ち入ってしまう。
微かな僧堂内の人の気配で我に帰る。
「今私は大本山永平寺で坐っている。約八〇〇年前に道元禅師が開かれたこの地で、多くの修行僧によって綿綿と続けられて来た坐禅を今自分も行じているのだ。」という感動が沸き起こって来ました。
思えば四年前、仏道を歩む決心をして前職を辞した直後にこの地を訪れた時は、まだ得度の見通しすらない不安だらけの毎日でした。壮大な伽藍に圧倒されながらキビキビと動く修行僧を見て、「自分もその一人となる時が来るのだろうか?」と思うと同時に、再びこの地を訪れる時は、「必ず僧侶となってから来たい」と思っていました。
その後、駒澤大学仏教学部に編入学し、仏縁によって得度を受け、この度、永平寺別院長谷寺の新到研修の一員としてこの永平寺へ来ることが出来たのです。
しかし、感動もつかの間、自分に甘えることの多い今の状況に、「これでいいのか」という反省の気持ちが沸いて来ました。もう一度、仏道を目指した頃の初心に帰って気を引き締めなければと切に思います。
本山の小林監院老師から「正法の敷衍」というお話しがあり、「世界中で坐禅を行じている仲間がいる。一体となって世の中を良くして行こう。」とのお示しを頂きました。
現に長谷寺で出会った素晴らしい仲間と共に毎日修行に励んでいます。この輪を少しでも大きくして行きたいと思います。
光陰が虚しく過ぎるのではなく、人が光陰を過ごしているのだという道元禅師のお示しがあります。これからの修行生活は一日一日を大切に、初心を忘れること無く精進して行きたいと思います。

ハララン樂禅
新到研修でまず訪れたのが、長野県の善光寺です。私の実家がある山梨県の善光寺に数年前に行ったことがあり、長野の善光寺にも行ってみたいと思っていたのでとても楽しみにしていました。
善光寺の特徴の一つに戒壇めぐりがあります。山梨の善光寺にも同じく戒壇めぐりがあり、私は義父と共に暗闇を進むことになりました。少し進んだところで私は、あまりの暗さと恐怖心から、前を行く義父の肩を「グッ」と掴んでしまいました。すると義父は私の方を振り返り、自分の胸を「ポンポン」と叩くようにして、胸に手を当てています。私はその義父の仕草が薄っすらと見えました。義父は無言で「心をつかいなさい」と私に示してくれたのです。
永平寺に向かうバスの中で、あの戒壇めぐりの暗い廊下はどういう意味か考えました。暗闇は、人生に迷って自分の進むべき道がわからない、迷いの世界を表しているのではないでしょうか?私は時々この人生に迷って自分の前の道がはっきりわからなくなることがあります。そういう時こそ、義父の言ったように自分のこころを頼りに歩むことが大切なのだと思いました。
永平寺には数年前に行ったことがありましたが、今回は永平寺別院長谷寺の雲水という今までとは違う立場での拝登となりました。しかし、私たちは一般の参籠者と同じ場所での宿泊でしたので、永平寺の雲水の毎日の修行の様子ははっきりとはわかりませんでした。ただ、お経の読む速さ、作務など生活のペースは速いと感じました。特に廻廊掃除は速くて賑やかで、私にとっては大チャレンジとなりました。
そして、何よりも一番心に残っているのが朝の坐禅です。あの時、僧堂の中と周りは非常に静かでした。そして、お寺の外からの音はとても平和だと思いました。山の小川の音、キツツキの朝の挨拶は、「私たちは今、東京にいない」と感じさせてくれました。私は紛れもなく「ここが禅の専門道場として一番良いところ」と感激しました。
今私は長谷寺に戻り日々修行に取り組んでいます。ここでの朝の音は、キツツキと山の小川の音ではなく、すぐ近くを通る六本木通りの音がよく聞こえます。周りは高い杉の木ではなく、富士フイルムのビルと他の都会のビルが沢山あります。ここの空気は永平寺の深い山の空気ではありません。私はたまにここが息苦しいと感じています。山奥のお寺は都会にあるお寺より禅の修行のためには良いでしょう。正直に私は自然の生活の方を好んでいます。
でも、修行に向かったら両方は同じだと思いました。どこにいても坐禅は同じ坐禅です。そう思えたのも、今回の研修で道元禅師様のお膝元、ご本山永平寺で坐禅を組むことが出来たからです。この思いを忘れず、長谷寺での修行に励み合いたいと思います。永平寺にはまた是非機会を作って行きたいと思います。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly