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『托鉢(たくはつ)』

長谷寺では月に一度、托鉢(たくはつ)を修行しています。托鉢とは、僧侶(修行僧)が街を無心に歩き布施(ふせ)(喜捨(きしゃ))したい人が現れれば、ただそれを受け取る修行です。一見すると、街頭募金や訪問募金のように思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そうではありません。托鉢は決して、街頭や駅前に立って道行く人に「布施」をお願いすることもなければ、戸別訪問で玄関を開けることもないのです。また、布施してくださった人に(感謝はしても)お礼は言いません。もし「お願い」をしたり「お礼」を言ってしまったら、それはご寄附・募金活動になってしまい托鉢ではなくなるからです。

また、托鉢と言うと僧侶の修行と思われがちですが、実は一般の方にとっても修行なのです。布施を受けた時にお唱えする偈文に『施(せ)財(ざい)の偈』があり、その中に「財法二施(ざいほうにせ)」とあるように、「財施(ざいせ)」と「法施(ほうせ)」、托鉢は「財施」(お布施)をする人も、「法施」(説法)をし、そのお布施を受ける僧侶もお互いが施し合う修行なのです。

財施をする人(檀信徒・一般の方)にとっては、自分の財産・金品・持ち物、いわゆる「浄財(じょうざい)」を手放す、執着(しゅうじゃく)を断つ修行です。「布施」のことを「喜捨」するとも言い、文字通り見返りを求めずに「喜んで捨てる」修行であり、功徳を積むことになります。

法施をする僧侶の側にとっては「教え(法)を施す」布教の実践の場です。とはいうものの、現在はお釈迦様ご存命の頃のように、托鉢に出て人々に説法(法施)をすることは現実的に困難な状況です。では、私たちの行じている托鉢は単なる真似事でしょうか。そうではないはずです。

お釈迦様の最初の説法を聞き弟子となった五比丘の一人に、アッサジ(馬勝(めしょう))という修行者がいました。今も修行道場において「馬勝の威儀を習え」といわれるほど威儀端正なことで知られていたアッサジが、一人托鉢に出掛けていた時のことです。後にお釈迦様の十大弟子の一人となるサーリプッタ(舎利弗)は、その端正な立ち居振る舞いに見惚れ「あなたのお師匠様はどなたですか?」と尋ね、すぐにお釈迦様の弟子となったという故事があります。

このように何も説法(お説教)だけが法施ではありません。お経や偈文を唱えることも法施であり、延いては、修行道場に身を置き、その日々の修行によって培われた歩く「その姿」(威儀・立ち居振る舞い)がそのまま「法施」なのです。

このことは我々僧侶がきちんと自覚していなければ托鉢が単なる募金活動になってしまいます。

托鉢は、衣食住に対する執着を捨て、生きて行くということを他人に委ねる大切な修行です。お釈迦様の時代は、午前中に托鉢に出て、その日、食って行く分、つまり生きて行く分だけを頂き、蓄えるということはありませんでした。現在、長谷寺で行じている月例托鉢は、お釈迦様の時代のそれとは違い、日々の生活が懸かった托鉢ではなく、傍から見れば、募金活動やパフォーマンスのように映ったり、真似事といわれるかも知れません。

それでも、お釈迦様が行じられた「托鉢」という頭陀行(ずだぎょう)を我が身で体現することが大切なのです。現在、日本においてはお釈迦様の頃と同じようにとは行きませんが、道元禅師様がお釈迦様から正しく伝えられた坐禅と同じく偏らない心で、浄財の多い少ないを思うことなく、人に見られる恥ずかしさや、絡んでくる人への怒りなど全てを超えて、ただひたすらに歩くところに我々の托鉢の意義が見いだせるように思います。

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