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大衆法話

2016年7月23日

七月一日より十日まで晩課盂蘭盆施食会に引き続いて、連日、三、四名の修行僧が、山内の僧侶、お参りの方の前で法話を発表する「大衆法話」が行われました。
それぞれが仏祖の教えに出合い救われた体験を話してくれました。その中から、二名の法話を掲載いたします。

坐禅の心で

辦事 大田 大玄

私はこれまでの人生で、自分が面倒臭いと思うこと、苦手なこと、新しいことに挑戦すること、いわゆる人として成長してゆく為に必要不可欠な「試練」から逃げて生きてきました。
そんな私でしたが、大本山永平寺別院長谷寺専門僧堂に安居したことで、これまで逃げてばかりだった自分の弱い心と真剣に向き合うことになりました。

長谷寺に上山したばかりの頃の私は、正座が出来ず、朝起きるのも辛いし、覚えることばかりで心身共に余裕がなく、二週間も経たないうちにもう帰りたいと思いました。師匠にも相談しましたが、「今までの人生逃げてばかりだったのだから、もう少し頑張ってみろ」と、帰ることを許してはくれませんでした。

その後も毎日が辛く、やる気が起きず、「帰りたい」一心でした。公務にも気持ちが入らず、その場しのぎの修行の日々が続きました。
そんなある日のことです。ある役寮さんから呼ばれ、「今度の夏制中、辦事として首座和尚さんの手助けをやってみないか」と言われたのです。私は「なぜ自分が?」と言う気持ちで大変驚きました。とても私には務まる気がせず、再び逃げたい気持ちが沸き起こってきました。私は、悩みました。逃げ出したい気持ちと、もうこれ以上は逃げてばかりいられない気持ち。ここで逃げたら一生後悔するのではないか?との思いが入り交じっていたのです。

そして私は数日悩んだ末、覚悟を決め辦事を受けることにしました。強制的に入れられた長谷寺でしたが、嫌々ながらも二ヶ月なんとか逃げずに努めてきたことが僅かな自信になったのでしょうか?逃げようという気持ちよりも、やってみようと言う気持ちが勝っていました。

修行にきてから初めて読んだ本の中に、坐禅の心について「善い、悪いとか、好き、嫌いなどのはからいをやめること」とありました。

私はこれまで困難なことに出合うと逃げてばかりいました。しかし、長谷寺に来たことで半ば強制的ではありましたが、嫌なことから逃げずに、向き合うことが出来ました。

今は辦事として、修行僧のリーダーである首座和尚さんの補佐をさせて頂いています。到らぬ自分ではありますが、与えられた役に全うすることで、充実した修行生活を送ることが出来ています。
これからは、自分に与えられたことから逃げず、好き嫌いを言わず、何事にも向き合って行きたいと思います。

本当の修行

菜頭 昆 龍平

長谷寺に修行に来たばかりの頃の私は、それまでとは全く異なる生活に大変戸惑いました。早起きを初めとする生活のリズムの問題は勿論のこと、寺の生まれでありながら殆ど仏教に触れることなく過ごしてきたことで、修行生活に中々慣れることが出来ませんでした。

時が解決してくれるとも思っていましたが、日が経つにつれて周りの同安居(同級生)よりも生活に慣れることが出来ずに自分だけが遅れをとっているように感じ、「自分は本当に仏道修行に向いているのだろうか?」と大変悩みました。日に日に不安が大きくなり逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。

そんな中、どん底の私を救ってくれたある教えと出合いました。その言葉は、私たちが毎朝読み上げる「箴(しん)規(ぎ)」という、私たちが修行生活を送る上で指針とする規則の中にある『威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし)』という教えです。この教えは日本曹洞宗の礎を築いた大本山永平寺御開山、道元禅師の教えの旗印とも言うべきお示しです。日常生活の立居振舞の一つ一つが仏法を修めることで、教えに則って行じて行くことが修行に他ならないのだ、ということです。

法衣をきちんと着ること、作法に則って顔を洗い、歯を磨くこと、合掌をする時は合わせた掌の中指が鼻の高さになるようにすること、歩く時は背筋を伸ばし、足音に気をつけて歩くこと、お経本の持ち方や食事作法等々、日々の一挙手一投足を仏法に則って気持ちを込めて行うことが仏道修行だったのです。

この教えに出合う前の私は、修行生活に慣れないばかりか、配属された典座(てんぞ)寮での食事作りを始め、毎日新たに与えられる法要等での役割の所作を覚えることや、日常読誦するお経を諳んずることなど、多くのことに追われ頭が一杯で、今自分は一体何をすべきなのか、何から始めれば良いのかわからず途方に暮れ、万事に気持ちが入っていなかったのです。

しかし、教えに出合い、修行とは何も特別なことではなく、目の前のこと一つ一つに気持ちを込めて行ずることだと知り、心が軽くなりました。そして、実践することで次第に修行に対する意識が変わっていったのです。ゴチャゴチャしていた頭の中がスッキリと整理され、やるべきことが明確になったことで今では意欲的に修行に取り組めるようになりました。

勿論、未熟な私には僧侶として覚えなければならないことが山のようにあります。しかし、それらを覚え習得することだけが仏道修行ではなかったのです。『威儀即仏法、作法是宗旨』、日常の中にこそ仏道修行があるのだということを肝に銘じて、これからも修行に励んで行きたいと思います。