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専門僧堂

禅宗が独自の修行道場を持つようになった中国の唐・宋時代以降、堂の中央に聖僧を安置し、修行僧が常にそれを囲むようにして単を設けて、坐禅のみならず睡眠や食事までも行う道場のことを「僧堂」といいます。

後の明・清時代には、禅堂という建築になりましたが、それは、本来の僧堂から坐禅だけの機能に特化した僧堂とは異なるものである。日本曹洞宗では、僧堂のみがあって、禅堂は基本的に置かれない。また、このような僧堂は百丈懐海による『禅門規式』によって定められています。

【是に於いて創意して、別に禅居を立てる。凡そ道眼を具え、尊するべきの徳有るは、号して長老と曰う。西域の道高く臘長きを須菩提等と呼ぶ等の謂いが如くなり。既に、化主となって、即ち方丈に処す。浄名(=維摩居士)の室に同じ。私寝の室に非ざるなり。仏殿を立てずに唯、法堂を構えるは、仏祖親授の当代の尊と為すを表するなり。哀れむ所は、学衆の多少無し、二の高下無し。尽く僧堂中に入りて、夏次(=出家してからの年数)によって安排す。長連牀を設けて、施架に道具を掛搭せん。 】

ここでは、修行僧は僧堂内の長連牀の上に法臘の長幼にしたがって、その位を定め、昼夜の坐禅に、粥斎二時の行鉢、夜間の開枕まで行われる。なお、僧堂の配置は山門の正面にある仏殿の向かって左側に庫院と相対して置かれる。

日本で最初に僧堂を配置したのは、道元禅師が創建した宇治の興聖寺であるとされる。そのために、道元禅師は勧進(『宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏』参照)まで行っており、またその真意について『正法眼蔵随聞記』では次のように伝える。

【今僧堂を立テんとて勧進をもし、随分に労する事は、必ズしも仏法興隆とは思はず。ただ当時学道する人も無く、徒ラに日月を送る間、ただあらんよりもと思フて、迷徒の結縁ともなれかし、また当時学道の輩の坐禅の道場のためなり。 『正法眼蔵随聞記』巻3-6 】

そして、永平寺では創建当初から、僧堂が揃っていることを喜んでいる様子が伝えられている。

【測り知りぬ、坐禅は是、悟来の儀なり。悟は只管に坐禅するのみ。当山始めより僧堂有り、是、日本国、始めてこれを聞き、始めてこれを見、始めてこれに入り、始めてこれに坐す。学仏道人の幸運なり。 『永平広録』巻4-319上堂 】

なお、道元禅師は僧堂での修行を示して『重雲堂式』『弁道法』などを執筆しておられる。その後、江戸時代に明様の禅堂・食堂という建築方法が入ってきたが、面山瑞方や玄透即中などが行った「古規復古運動」によって、再び僧堂を中心とした修行が復興され、特に面山はそのための『洞上僧堂清規行法鈔』(5巻)及び『洞上僧堂清規考訂別録』(8巻)を著している。

引用:つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉