新到研修記

新到研修記


参事兼悦事 勝田 岳芳

 八月二十日、二十一日と平成二十六年秋、二十七年春に上山した新到和尚十七名を典座和尚と共に引率し、ご本山へ新到研修に行って参りました。
出発前の新到和尚の表情は、初めての泊りがけでの研修ということで心弾む気持ちと、本山での修行に対する不安な気持ちとが入り混じり何とも複雑な様子です。
五時十分に法堂前で道中安全諷経をあげ出発し、途中、富山県高岡市にある曹洞宗の名刹、瑞龍寺を参拝させて頂きました。瑞龍寺は禅宗寺院建築の特徴である七堂伽藍(山門・仏殿・法堂・僧堂・庫院・東司・浴室)が整っており、中でも山門・仏殿・法堂は国宝にも指定されています。住職様よりご丁寧な案内を頂きながら、整備された伽藍を拝観することが出来、大変貴重な体験となりました。
瑞龍寺を後にし、一路永平寺を目指します。新到和尚の顔は永平寺が近づくに連れて緊張の面持ちへと変わって行きます。永平寺に到着し一歩足を踏み入れた時の感動は筆舌に尽くし難く、深山幽谷の荘厳な雰囲気に胸が熱くなりました。

大衆を引率し受付を済ませると、薬石(夕食)までの間は諸堂案内の時間です。通例では本山の大衆に案内を頂くのですが、本山修行時代の経験を私の言葉で別院の大衆に伝えたく、私たっての希望で案内を務めさせて頂きました。

永平寺もまた瑞龍寺と同じく七堂伽藍が整っています。七堂伽藍は坐禅をしている姿に準えられ、法堂は頭、仏殿は心臓、僧堂は右腕、庫院は左腕、山門は腰骨、東司は右脚(膝)、浴室は左脚(膝)に当たります。案内の中で僧堂と庫院が向かい合っている意味(法食一等・理想を表す法と実存を表す食の両方が整ってこそ修行が成り立つ)や、東司(便所)・浴室が修行道場として七堂伽藍に含まれ、尚且つ坐禅を支える両膝にあたる場所にある意味(誰も見ていなくても、気の緩みやすい場所でも、きちんと作法通りに行ずることが出来るかが問われている)などを、私の経験も交えながら話しました。新到和尚たちは、今自分たちが日々行じている修行と直結することとあって非常に熱心に耳を傾けてくれました。七堂伽藍は「坐禅や読経だけでなく、食事を作ること、頂くこと、顔を洗うこと、便所を使うこと、風呂へ入ること、眠ることすらも、二十四時間全てが仏の行である」と示された道元禅師の教えを具現した、修行に欠かすことの出来ない道場なのです。

諸堂案内が終わり薬石は、一般のお泊りの方が頂く作法を体験させて頂き、薬石後は入浴を済ませ、夜坐へと向かいます。
坐禅は僧堂の外単にて二炷坐らせて頂きました。別院より少し暗い僧堂に坐っていると様々な音が感じられます。静寂の中に聞こえてくる太鼓の音、虫の音、水の流れる音、途中降った雨音、刻一刻と移り行く外の空気が心地よく感じられ、新到和尚たちもいつもと違う環境の中、集中して坐ることが出来たようです。
翌朝は三時半振鈴、暁天坐禅、そして、法堂にて道元禅師、懐奘禅師にお参りをし、本山大衆と共に朝のお勤めに参加致しました。いつもより広い法堂で、いつもより大人数での読経に清々しい気持ちになりました。
小食は禅堂にて持参した応量器を用いて頂き、小食の後は廻廊掃除です。別院ではこの時間に伽藍内外の掃除を分担して行うのですが、本山では伽藍と伽藍を繋ぐ長い廻廊の雑巾がけを全員で行います。
別院の修行僧たちも作務衣に着替え、本山の古参雲水さんの指導の下、法堂から山門に向かって床に這いつくばるように雑巾がけをしました。予想以上の運動量に悲鳴を上げる者もいましたが、何とか皆無事に山門まで拭き上げることが出来ました。
永平寺での日程を終えると、帰りは金沢の温泉に寄って疲れを癒して長谷寺へと帰山しました。
今研修は、ただ行って来ただけにならないよう、帰りのバスの中では今回の研修で感じたことを一人ずつ発表する時間を設け、帰山後は気持ちの熱いうちにと、すぐに感想文を書いてもらいました。夫々の感想を見聞きさせて頂いた限りでは、新到和尚にとって有意義な研修であったと感じています。後は学んだことを別院での修行で実践し一人ひとりが変わって行くことです。その一助となれるよう私も共に精進辦道して行きますことをここに誓い、新到研修の報告とさせて頂きます。

{新到和尚の感想文より}

– 本山研修ということで構えていたが、別院となんら変わらないことを行じていることがわかった。
– 東司、浴室を使う時の心が坐禅やその他の修行にも影響して来ることを学んだ。
– 庫院の聯にあった「法食同輪」という言葉を忘れず受処の公務を全うしたい。
– 本山での修行を体験して感じたことは、道場はどこも同じだということです。自分の気持ち次第で僧堂生活は良くも悪くもなることに気づきました。
– 別院と違いエアコンもなく、車のエンジン音や道行く人の話し声なども一切ない中での坐禅は、虫の音や川の流れる音など自然の音が心地よくいつもより集中して坐れた。
– 東司に代表されるように、人が見ていない所でもきちんと行じられるかが大切だと思った。
– 浴室にあった「浴みする者千人なりとも、その湯浄きこと元の如し」のように、自分さえ良ければではなく、常に自分以外に目を向けることが大事なのだと思った。


諸堂拝観・坐禅

道元禅師、懐奘禅師にお参り・廻廊掃除

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