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  2. 『夜坐(やざ)』

日々の行持~夜坐(やざ)~

晩課諷経、引き続き薬石(やくせき)(夕食)が終わると十八時半からは夜の坐禅、「夜坐」です。朝の暁天(きょうてん)坐禅(ざぜん)と違い住持(じゅうじ)(住職)による行(ぎょう)香(こう)(焼香礼拝して諸堂を回り最後に大衆が坐禅している僧堂に赴く)はなく、各々が搭(たっ)袈裟(けさ)にて(お袈裟を掛けて)時間までに僧堂へ赴き静かに坐を調えます。

定刻になると直堂(じきどう)(僧堂の当直)は、僧堂内堂に吊り下げられた鐘を緩やかに三声打ち鳴らします。これは、「静けさを止める」と書いて「止(し)静(じょう)」という、坐禅の始まりを告げる鳴らし物です。止静を入れた直堂は、僧堂中央に祀られた聖(しょう)僧(そう)様(僧形の文殊菩薩である場合が多い)の前に至り合掌問訊し、警策(一メートル程の長さで、先が平たくなっている棒状の法具)をとり、次いで住持にも一礼した後、堂内を巡回します。これを巡(じゅん)香(こう)といい、坐禅の妨げにならないようゆっくり静かに歩を進めながら、姿勢の乱れている者の姿勢を正したり、居眠りをしている者や、注意力が散漫な者には右肩に警策を差し上げ(右肩を打ち)、心のゆるみをいましめたり、眠りを覚まさせ覚醒させたりと坐を点検して回ります。決して獲物を探すかのように貪り歩くのではなく、坐禅と同じ心構えで緩やかに歩き、そこに偶々、坐の乱れている者がいれば警策を差し上げるのです。

警策は、直堂の側から差し上げることも、坐禅者が自ら進んで受けることも出来ます。前者の場合は、まず坐の乱れている者の右肩を軽く打ち(予(よ)策(さく)という)本人と堂内に予告した後、受者は合掌一礼をして左斜め前に身体を傾け右肩を開け警策を頂きます。後者の場合は、合掌して待っていると同じく警策を頂くことが出来ます。

警策は「警(きょう)覚(かく)策(さく)励(れい)」の略で、直堂はその警策を聖僧様からお預かりし、そして住持に代わって策励を務めさせていただいていることを肝に銘じて、むやみやたらに乱打するのではなく、字の如く大衆の坐禅を励ますが為に行じなければなりません。

長谷寺の夜坐は原則、四十分の坐禅を二回坐ります。現在は時計でもって時間を計りますが、時計の無い時代には一本の線香が燃え尽きるまでの時間を一回の坐禅としていました。このことから坐禅の単位には、一片の香を焚くとか、一本の香が燃え尽きるといった意味を持つ「炷(ちゅう)」を用い、夜坐一炷(いっちゅう)、二炷などといいます。

二炷坐る場合は、一炷目の終わりの時間になると直堂は鐘を二声鳴らします。これを「経(きん)行(ひん)鐘(しょう)」といい「経行」の時間の合図です。経行の「経」は経線の経で経糸(たていと)という意味があり、それに「行」ですから、経行とは真っ直ぐ一直線に進むということです。長時間の坐禅で屈折した身体を伸ばし、足の痺れや痛みを取り、眠気を防ぐ為に経行をします。

経行鐘が鳴ると、坐ったまま上半身を左右に揺らし身体をほぐし(左右揺振(さゆうようしん))、組んだ足を解き牀(しょう)からおります。堂内を半分に分け、それぞれが等間隔に一列になり歩きます。経行は歩く坐禅とも言われ、坐禅と同じく調身、調息にて行じなければなりません。手は胸の前で組み(揖手(いっしゅ))、歩の進め方は「一息(いっそく)半歩(はんぽ)(半趺(はんぷ))」と言い、一呼吸で足の甲の長さの半分ずつ進みます。十分ほど歩くと「抽解鐘」という鐘が一声鳴ります。

抽解とは抽(ぬ)き解くことで、坐禅と坐禅の合間に東司(お手洗い)へ行ったり、休息したりと次の坐禅に備える時間のことです。※現在、長谷寺では経行と抽解を兼ねています。

二炷目の坐禅が始まり二十分ほど経つと、直堂は薄暗かった堂内の電気を全灯し、道元禅師様が示された『普(ふ)勧(かん)坐禅(ざぜん)儀(ぎ)』、或いは、瑩山禅師様が示された『坐禅用心記』を一同拝読致します。両祖様が示された教えを噛みしめるようにゆっくりとお唱えします。

唱え終わると時間を告げる「更点」が鳴り、次いで夜坐の終わりを諸寮に告げる「僧堂版」が緩やかに三通し、「枕を開く」と書いて「開(かい)枕(ちん)」、つまり就寝時間を山内に知らせる大梵鐘、「定鐘(じょうしょう)(開枕鐘)」が十八声撞かれます。この定鐘の第一声目を聞いて直堂は、坐禅の終わりを告げる「放(ほう)禅(ぜん)鐘(しょう)」を一声鳴らし夜坐は終了です。

夜坐が終わると「今日も一日が終わった」と気を抜いてしまいがちですが、道元禅師様が日々の修行の実践方法について示された『辦道法』では、夜坐が一日の始まりであることに留意しなければなりません。夜坐のことを「黄昏(こうこん)坐禅(ざぜん)」或いは「初夜の坐禅」とも言い、以前、紹介しました「暁天(きょうてん)坐禅(ざぜん)」(後夜の坐禅)の行法で行じられていたようです。

一日の始まりが坐禅であることは現在と同じですが、そこで途切れることなく(実際は寝ている間も修行であるから現在も途切れることはないのですが)、床に就くというのは非常に理に適っているように感じます。寝る前にスマートフォンやパソコンの画面を見つめることで脳が覚醒してしまい、眠りが浅いなどの睡眠障害を引き起こす人が多い現代において、坐禅によって静まった心のまま眠りに就くということは現代人にとって重要なことかも知れません。

道元禅師様が示された修行は二十四時間、三百六十五日、一生涯、ぶっ続きの修行です。次々と次の行持を知らせる鳴らし物が鳴ることからも見て取ることが出来ます。日々の行持の中から夜坐だけを抜き出して考えるのではなく、途切れることなく自らを仏として現し続ける仏行の中に、夜坐という「行(ぎょう)」があるのだ、と考えなければならないことを改めて痛感いたしました。