『行鉢(ぎょうはつ)』その六

日々の行持

   日々の行持~行鉢~ その六
 折水(せっすい)が終わると、収鉢(しゅうはつ)といって饙子(くんす)を頭(ず)鉢(はつ)に収め袱紗(ふくさ)で包み元の一纏めにする作法を行います。右手で鉢拭(はっしき)を取り第二饙(にくん)を拭き上げ頭饙(ずくん)と同様に頭鉢に重ね、続いて用いなかった第三饙と第四饙も重ねます。次に、応量器(頭鉢、饙子)を左手で押さえ、鉢拭を持った右手で鉢単を左から右へとこぼれた浄水を拭きます。次に、応量器を右側へと移動させ、今度は右手で応量器を押さえ、鉢拭を持った左手で鉢単を右から左へと拭きます。
 続いて左手で応量器を少し持ち上げ、右手で鉢単を抜き、袱紗の中央に置いた応量器の上で鉢単を九重に畳み、応量器の上に置きます。次に、手前から奥、奥から手前と袱紗を掛け、次いで膝掛けを畳み応量器の上に載せます。その上に匙筯袋(しじょたい)、更に、水板を重ねます。


 続いて、鉢拭の皺をよく伸ばし応量器に被せます。ここで、使わせて頂いた応量器に対して感謝の合掌一礼をして、そのまま左掌を上に向けて応量器の上に載せ、右手で左右の袱紗の角を取り、左掌の上で交差させて左側に輪っかができるように片結びをします。片結びをすることで応量器の上下の目印になり、また、使用する時に簡単に結びを解くことができます。袱紗を結び終えたら鉢拭を整え合掌一礼をします。
 次に、牀(じょう)縁(えん)を拭く浄巾(じょうきん)を持った浄人(じょうにん)(給仕役)が内堂に入ってくるので、応量器を持ち上げて牀縁を拭いてもらいます。

 最後に、拍子木が一声を聞いて一同合掌し、維那は『処世界梵(しょせかいぼん)』(後(ご)唄(ばい) ※最後に唱えるという意)を唱えます。「処世界如虚空(しーしかいじきくーん) 如蓮華不者水(じれんかふじゃしー) 心清浄超於彼(しんしんじんちょういひ) 稽首礼無上尊(きしゅりんぶじょーそーん)」(世界に処すること虚空の如く、蓮華の水に著かざるが如し、心の清浄なることは彼よりも超え、稽首して無上尊を礼す)。四句目の「無上尊」にて低頭をし、唱え終わっての拍子木二声にて擎(けい)鉢(はつ)(応量器を捧げ持つこと)をして、結び目を左手で持ち自分の左後ろへ置きます。以上で行鉢は終了となり、各々、下牀(あじょう)して帰寮します。
 六回にわたり行鉢を紹介して参りましたが、食事を作ることは勿論のこと、食事を戴くことに関してもこれほどまでに詳細に示されたのは道元禅師様だけでしょう。初回でも申し上げた通り道元禅師様は『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』一巻を著され、その冒頭において「食(じき)が等(とう)ならば諸法(しょほう)も等(とう)なり」と『維摩経』から引用されています。これは食事を単なる食欲を満たす行為とは観ず、大切な修行と捉えられ、食事を正しく頂くことが出来れば生活全般(諸法)も自ずと調ってくる、とお示しになっているのです。食事という日常的行為を仏道修行へと転換していく、つまり、自らを仏として現して行く具体的な行為である「作法」に身も心も任せ切っていくということなのです。作法とは法を作すと書くように、仏法を行うこと、教えに従ってきちんと作して行くことです。日常生活の中に作法を取り入れることで、ただ飯を食うこと、ただ顔を洗うことが、修行へと昇華されていくのです。鉢を行ずる「行鉢」もまた、欲や、迷いで乱れた心を仏法によって真っ直ぐに調えていく大切な修行なのです。

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